
ウィーンのジングシュピールの歴史と《魔笛》の成立事情
(18世紀ウィーンの喜劇舞台における童話・魔法劇の伝統について)
藤原 怜子
モーツァルト Wolfgang Amadeus Mozart(1756ー91)最後の年に書かれたドイツ・オペラ《魔笛 Die Zauberflote》 K.620の台本に関して、エマヌエル・シカネーダー Emanuel Schikaneder(1751ー1812)の筋立てに多くの矛盾があるとして不名誉な申し立てが次々となされ、その原典としてすでに多くの童話や、他の劇作品の名が挙げられた。シカネーダーが台本を書くときに数種の童話から題材を仕入れ、さらに自分の劇場の過去の劇作品や各種レパートリーから面白いモティーフや常套句を取り入れて、手の込んだ内容豊かで斬新で魅惑的、かつ教養的で人道的な筋書きを作り上げた、というようなことに今日では異論はない。
《魔笛》の成立事情については、オットー・ロンメル Otto Rommelの『ウィーン昔日の民衆喜劇 Alt-Wiener Volkskomodie 』という著作(Wien 1952)の次のような記述が、我々の理解を助けてくれよう。
「当時センセイションを巻き起こしていたヴィーラント Christoph Martin Wierand編の童話集『ジニスタン、あるいは妖精精霊物語選 Dschinnistan oder auserlesene Feen- und Geister-Maehrchen』 の新刊をウィーン市民は皆読んだが、シカネーダーも童話『ルル,あるいは魔笛 Lulu oder Die Zauberflote』を読んだことは確かである。だからたとえ魔法の楽器がすでにプレハウザーとクルツの時代からウィーンの昔日の魔法劇には必須の付き物だったとしても、《魔笛》の構想のそもそもの発端はこの童話にあるといってもかまわない。また、娘を誘拐されて助けを求めている母親の国にタミーノが引き寄せられていくという筋も、たとえこのモティーフは珍しくないにしても、起源はここかもしれない。まだ会ったこともない王女の肖像に王子がほれこんでしまうということは、当時の童話にはよくあったことで、すでに国事劇《アジアのバニーゼ Asiatische Banise》(1722/1689?)の舞台にもみられる。〔中略〕。
また他にも『ジニスタン』の中にエレシウスの入信式の描写のところに火の試練のモティーフがあることを発見したばかりか、確固として沈黙を守るよう被後見人に警告する《賢い童子たち Die klugen Knaben》を、そして<星に輝く夜の女王>の姿を、足の裏にむち打ちの罰を受ける陰険なマウル人を、友情と善行の神殿等々を、発見したのである。〔中略〕。
さらに、シカネーダーとモーツァルトの二人が重大な関心を寄せたのは、その世紀の偉大な思想、つまり叡智と人間愛だった。この点で二人はヘンスラーHenslerとつながっていた。ヘンスラーHenslerは幾多の市民劇においてこの理想を表明した人物である。また英雄的でコミカルなジングシュピール《バラモンの太陽祭 Das Sonnenfest der Brahminen》では、この理念に荘重荘厳な表現を付した。この作品は1790年9月9日に初演され、1806年までにレオポルトシュタットの劇場だけで91回上演された。筋書きの舞台はインドで、大いにもてはやされた僧侶の合唱も含まれているが、狂気の僧侶たちの手から若いカップルを救うだけの話だったので、結局は因習の中に埋もれてしまった。これ以上に二人に強い影響を与えたのは、ゲープラー作のもっと古い劇《エジプトの王ターモス Thamos,Konig von Agypten》だった。舞台はへリオポリスの太陽神殿で、背景は太陽の金色の象徴に満ちている。失脚した王セトスは、年齢を重ねるにしたがって何も望まなくなり、そして賢くなっていく。太陽の神殿で僧侶たちの長としてひそかに暮らしている彼は、「太陽の娘たちの長」を務める意地悪なミルツァの悪巧みから娘タルシスを守り、その後ーー復讐欲を超越してーー彼から王位を奪った男の息子で高貴な性格の男と結婚させる。〔中略〕。
さらにフリーメーソンに関しては、イグナーツ・フォン・ボルンの論文「エジプト人たちの秘儀について Uber die Mysterien der Agyptier」が、《魔笛》の内容と象徴性に決定的な影響をおよぼした。この論文の基礎になったのは、フリーメーソンのサークル内でとりわけ読まれていたジャン・テラソン神父Jean Terrasson(1650ー1750)の小説『セトス。古代エジプトの逸話ふう事跡の物語あるいは伝記。ギリシャ語手稿より翻訳 Sethos,historire ou vie tiree des monuments anecdotes de l'ancienne Egypte,traduite d'un manuscrit grec 』(パリ、1731)で、これは詩人マティアス・クラウディウスにより1777年から78年にかけてドイツ語に翻訳されていた。王子が僧侶の結社に入る入信式の描写はテラソンの小説で2章を占め、その中には火と水の試練および沈黙の義務が含まれている。これを核にしてそのまわりに、17世紀のイタリア宮廷オペラ以来のウィーンのバロック演劇の古い伝統から出来した実に多くの「エジプトふうのもの」がゴタゴタと付着している。フリーメーソンの儀式に由来するものとしては、入信の心構えをさせる盟友、新信者の頭にかぶせる覆い、弁者、数秘論全般ーー侍女が3人、試練が3つ、角笛を鳴らす音が3回、僧侶の人数が3X6人、童子と侍女登場回数が3回ーー等々がある。」
《魔笛》が「ロマンティックでコミカルな」ウィーンのジングシュピールの伝統を踏まえてはいるものの、決してその安易な踏襲に終わっていないことはモーツァルトの錬成された響きはもちろん、シカネーダーの台本をよく読んで見れば納得できよう。この二人が心から目指した新たな劇場作品とは、何だったのか。
この点の詳細については後述するとして、まず、オペラ史・演劇史の中でドイツ語のテキストによる喜歌劇がウィーンに登場する経緯を見てみることにしよう。
*1)劇場都市ウィーンの誕生
言語的、または政治的には神聖ローマ帝国というゲルマンの文化に属していながら、オーストリアは光溢れるイタリアの文化をもっとも早く受容した国であり、ハンガリーなどの東ヨーロッパの文化の入り口でもあった。そうした地理的な特性がこの国に文化の一種のマニエリスム的な発酵の条件を与えたのである。 従って、 ウィーンは北方のベルリンやハンブルクなど、さらにはミュンヘンとも異なった文化的土壌をもって、オペラ史に登場することになる。
18世紀のウィーンが生んだ最大の様式は交響曲であり、オペラはどちらかというとまだ、イタリアやフランスの影響が強く、ドイツ・オペラの成立というには、ほど遠い状況であった。
なぜ、《魔笛》はウィーンに生まれて、ハンブルクやベルリンに生まれなかったのか、という問いは、ある意味で非常に本質的であり興味深い。あらゆる意味で《魔笛》はウィーンの文化の典型であり、その後のヨハン・シュトラウスの《こうもり》やレハールの《メリー・ウイドウ》の先駆ともなった。
《魔笛》はジングシュピールというジャンルのオペラであるが、これはライプツィヒやハンブルクといった北方諸都市の同じジングシュピールとはまったく性格を異にしていた。ここでその歴史を振り返りつつ、《魔笛》の中に何が流れ込んでいったのか、それを支えた時代背景と思潮の流れを詳細に見ながら、ウィーンの伝統とはどのようなものであったか、見てみることにしよう。
ジングシュピールには大きく分けて二つの系統がある。その一つはベルリンに発した北ドイツのジングシュピールであり、これは18世紀半ば頃、イギリスのバラード・オペラをドイツに移入することによってはじめられ、ライプツィッヒ・オペラに光彩を放ったヨハン・アダム・ヒラー Johann Adam Hiller(1728ー1804)等の人気作曲家の力で広まった。ゲーテがこの種のジングシュピールに大きな歓心をもったことはよく知られている。
もう一つはウィーンのジングシュピールである。これも18世紀半ばから盛んとなるが、こちらは主としてイタリアのオペラ・ブッファの移植によって発展した。またのちにはフランスのオペラ・コミックの翻案が多くなる。しかし、それ以前からこの地には民俗的な音楽劇としてポッセ(Posse)と呼ばれる茶番劇が行われており、その中に後にハンスヴルスト劇と呼ばれて一世を風靡するジングシュピールの最初の形態とみなされるものが含まれていた。
ウィーン市内で行われた民衆的な茶番劇(ポッセ)は古く17世紀後半にさかのぼる。この頃、ウィーンのユーデンマルクト広場(ユダヤ広場)で、プルチネッラ・シュピラーすなわち人形芝居(あるいはポリチネッロ黙劇)をして廻る数人の芸人たちが猥褻な喜劇を演じて人気を得ていた。やがてこのほかにもアム・ホーフ広場に掘立小屋ができ、1705年頃からシュトラニツキーという喜劇役者が活躍し始める。彼は1712年からケルンテン門劇場で自作自演をはじめた。臨時の堀立小屋を離れて、常設の劇場にはいることが出来たわけである。作品は変わっても彼の役はいつもハンスヴルストという名で呼ばれ、やがてこの役はウィーンの人気者となった。イタリアの即興喜劇コンメディア・デラルテのアルレッキーノを移し換えたような滑稽な役であるが、いつもザルツブルク生まれの豚殺しの家系という設定で登場し、田舎者の道化をウィーン人が笑うという構図を作り出した。そしてまた、これらの出し物は当初から、かなり多くの民俗的な音楽を取り入れており、その筋書きの固定した土着性の上に、響きによってさらに庶民的なローカル性を付け加えた。
つまり、 ウィーンはイタリアのコンメディア・デラルテの影響の上に、ハンスヴルスト、カスパーという独特の道化役を生み出していった。ウィーンのジングシュピールを特徴づけたのはまさにこの道化役であり、シカネーダーの生み出したパパゲーノというキャラクターも結局この道化役の一つに他ならない。ハンスヴルストのおよそ画一的な性質を挙げてみると、唯物性、粗暴さ、出たがり屋、大喰い、大口たたき=臆病者、愛とは子供を作ることという考え方、排泄物嗜好の表現・・・といったところである。こうした役柄は他の都市のジングシュピールにはあまり見られないウィーン独特のものといってよいだろう。
モーツァルトの時代になっても立派な劇場を持つ都市はそう多くはなかった。仮に劇場があったとしても宮廷内の劇場であったり、王族の専用であったりして庶民が自由にオペラを楽しむという環境にはほど遠かった。ハンブルクでは、ゲンゼマルクト劇場が市民のための劇場として存在していたが、ハンブルク・オペラそのものがルター派の敬虔主義の圧力に屈したりして、早々とその幕を閉じてしまった。しかし、ウィーンでは、劇場を支えていたのはあくまでも民衆文化であった。1770ー80年代には二つの宮廷劇場の他に三つの民衆劇場が誕生し、しかもブルク劇場とケルンテン門劇場という二つの宮廷劇場も皇帝ヨーゼフ二世の命によって皇帝直轄の国民劇場として解放されたのである。さらに1790年代ともなると城壁の外側の新市街区に民衆劇場がいくつもオープンし、まさに劇場都市ウィーンが誕生するのである。この時期にこれほどの演劇やオペラを上演できた都市は他には類がなく、その活況がそのまま音楽活動の活況と結びついた。ハプスブルク家の皇帝の代々の特徴でもあろうか、皇帝が音楽には特に熱心であったことも幸いした。
*2)ジングシュピールの歴史
その源流としては、あらゆる種類の世俗劇が考えられる。旅の一座が演じる悲劇や喜劇には、しばしば多数の歌が含まれており、それらは多くの詩句を持ち、流行の旋律にのせて歌われた。またあらゆる種類の器楽、行進曲、王侯の入場に伴うファンファーレ、戦争や狩りの場面のファンファーレが含まれていた。歌は通例、喜劇の主役(ジャン・ポタージュ、ジャック・プディング、ピッケルヘディング、後にハンスヴルスト)に与えられた。コメディー・イタリエンヌは18世紀には定期市の芝居小屋と結びついて独特な形式をとり、フランス的要素を加味してウィーンの劇場に大きな影響を及ぼした。オーストリアおよびドイツの大宮廷におけるバロック・オペラは、一般の劇団が太刀打ちできないほどの豪華な水準に達していた。そこでそういった作品を翻案したりパロディー化する事で、庶民もオペラの壮麗さをかいま見ることが出来たのである。
ウィーンの宮廷でも時折、ケルンテン門劇場で上演されていたハンスヴルストの世界に非常に近似した、明らかに喜劇的な音楽劇やインテルメッ ツォが舞台にのぼることがあった。衣装付きで踊られた田園劇やバレエなどを含めた宮廷娯楽も感化力を持っていた。主要な宗教会派により上演された劇も、ジングシュピールの台頭に重要な役割を受け持った。イエズス会士たちが上演した音楽劇は、壮大さにおいては宮廷オペラに匹敵し、荘厳さや贅沢さにおいてはそれを凌ぐことさえあった。
ウィーンでは、音楽場面の長大化と相まってドイツ歌謡、パロディー、混合言語による詩文すらも用いられ、様々な芸術形式の間の障壁が切り崩された。そしてそれが、喜劇役者たちがケルンテン門劇場で音楽劇を演じる道を切り開いていった。
*3)ウィーンのジングシュピール
ウィーンの台本作家や作曲家は、ジングシュピールという副題を、むしろまれにしか自分たちの作品につけなかったが、彼らの作品そのものの性質を明示するのにこれほどピッタリの言葉はないほどであった。
1710年頃、ウィーンのケルンテン門劇場を引き継いだ劇団、ハンスヴルスト=シュトラニツキー一座の公演には音楽はごく限られた役目しか果たしていなかったという説が長いこと支持されていたが、実際には、付随音楽のみならず、数多くの歌、舞踏、完結したバレエすらも、この一座が舞台にのせていたことは疑う余地がない。ヨーゼフ・アントン・シュトラニツキー(1676ー1727)による「どさ回りの国事劇 Haupt- und Staatsaktionen 」(下品な喜劇場面をふんだんに採り入れた、神話上のないしは歴史上の人物についての芝居)の台本が約16編も現存しているが、そのなかでは平均して12曲から15曲に及ぶアリアが歌われていた。1726年にシュトラニツキーが没すると、ウィーンの大衆喜劇に音楽が占める割合は一段と拡大した。
自ら「町中ご存じ男」と名乗ったシュトラニツキーが死んでから、その後継者となったのは、ゴットフリート・プレハウザー(1699ー1769)であった。彼はシュトラニツキーの未亡人の委嘱によって1726年からハンスヴルスト役を師匠のとおりにやった(1725年に家督相続儀式という襲名披露を行ったという話もある)。彼の活躍は本来のウィーン・ハンスヴルスト喜劇の最高潮であるとされる。それは、ザルツブルクという田舎出の「百姓」を笑うということ、貴族が自分の家系・血筋を喋々するように、ハンスヴルストがその口調を真似て豚殺しの血筋を触れ回ることへの笑いを継承したのであった。
このプレハウザーの後継者はフェリックス・フォン・クルツ(1717ー84)であった。彼は1748年からケルンテン門劇場に出演していたが、「ベルナルドン」という新しい役を作り出して、これまた非常な人気を得た。
これらの茶番劇は一種の即興喜劇であったが、日常の庶民を題材としながらも世情に対し一種の批判的態度を持ち、ウィーン独特の人情味のある風刺を効かせた点でこのころの北ドイツの即興劇とは異なっている。また音楽がふんだんに取り入れられていたことも特徴であろう。イタリア・オペラことにブッファの影響が強く、中にはオペラ・セーリアをパロディー化したものも多かった。
しかし、1770年、クルツが劇場監督におさまった時、宮廷はヴェンツェル・カウニッツ侯爵を中心とするフランス演劇派、その他はヨーゼフ・フォン・ゾネンフェルス(1733ー1817)を頭とする反即興劇派が優勢であった。もうこの頃にはケルンテン門劇場はすでに民衆劇場ではなくなっており、1740年当時と同じようなレパートリーでは、うまく行くはずもなかった。最初のうちこそ「ベルナルドン親父」の帰還をめずらしがっていた観客も、結局はクルツをポーランドへ追いやることになる。
だが、その間に果たしたクルツ=ベルナルドンの役割は大きかった。
過剰、不均衡、無機質、断片的、こうしたバロック演劇の特質は、18世紀中庸になっても、旅一座の茶番レパートリーから消えず、もちろんクルツのベルナルドン芝居にも刻み込まれていた。見せ物が構造を切断する。あるいは、構造が見せ物に奉仕をする。芝居に歌、ワルツにパントマイム、大言壮語にとめどない地口、生世話の恋にケレンの仕掛けと早変わり、舞台はごった煮の坩堝となっていた。
そして、このような機会仕掛けの民衆劇・魔法劇は貧弱簡素な小屋にとどまらず、堂々たる常設のケルンテン門劇場程度の規模で大都市に進出移動を果たし、巨額を投じて華麗な大舞台に変身した。しかも記録によれば各演目には、かなり充実した音楽が付されていたのである。そもそも、ハインリヒ・ラデミーン(1671?ー1731)の1732年(発行年)の魔法劇《ルンツヴァンスカード、人喰い鬼の王 Runtzvanscad, Konig deren Menschenfressen 》 には4つの合唱曲、5曲の二重唱、24曲のアリアが含まれていた。1744年にクルツを座長とした一座が創設されると(彼が、中央および南ドイツに客演したために、北部の演目が豊富になった)、音楽の果たす役割はなお一層重要になった。代表的なクルツの作品を見ていると、楽曲の総数こそ《ルンツヴァンスカード》に及ばないが、重唱曲に驚くほどの比重がかけられている。1740年代末期から50年代初期の作品と思われる《ベルナルドンの破られた約束 Das zerstohrte Versprechen des Bernardons 》では、総楽曲数9つのうち3曲までもが五重唱で、そのほか四重奏1曲、三重唱1曲、二重唱2曲が含まれ、アリアはわずか2曲である。これに比較すると、クルツが ハイドンの《新版せむしの悪魔 Der neue krumme Teufel 》(1758)のために書いた台本では、総計38曲のうち32曲がアリアであった。これは、クルツ夫人によって発見され、夫に紹介された貧乏な青年作曲家ハイドン(当時19才)が、クルツ自身から委嘱され、作曲したものである。
ウィーンの国立図書館にはアリアの台詞の筆写本が4巻ある。それは“Teutsche Comedie Arien”と題されているが、だいたいベルナルドン活躍の時代、1754ー58年ごろのものである。これには22のアリア、6つの二重唱、2つの三重唱、4つの四重唱、1つのレチタティーヴォが含まれている。《ローマのルクレチア》という劇では13のアリアと4つの二重唱と2つの合唱があることから、音楽がかなり重要な位置を占めていたことがわかる。この中には、上記ハイドンの作品の他に、ホルツバウアー、エーダー、ファゥアー、ツィーグラーの名前による作品が含まれている。
このようにこれらの歌曲が集合的に残されているのは、当時これらが劇場を離れて一般にも歌われていたからである。ドイツのプロテスタント諸国では教会から出発してドイツ語の歌がかなり一般化されていたのに対し、南ドイツやオーストリアではそうした傾向は現れず、ようやく18世紀半ば頃ジングシュピールから出発して歌曲が普及し始めたのである。したがってこれらの曲がかなり明瞭にイタリアのアリア風スタイルを帯びているのは当然である。
またウィーンの民衆劇はその題名からしても、《賞賛すべきコントラバス》《魔法の太鼓》《魔法のヴァイオリン》などというように、それらが音楽劇であることを示すものがあり、また作曲家や歌手や音楽の「霊」などが主要な登場人物として活躍するものも多数あった。
さてその一方で、フランスのオペラ・コミックの直接の移植も行われた。1752年フランスの劇団が「王宮のそばの劇場」(ブルク劇場)に入り込んで来た。コルネイユの作品や、シャルル・シモン・ファヴァールの民俗的な劇《村の鶏》が上演された。ブルク劇場の座主ドゥラッツォ伯はこれらのパリの音楽劇に力を入れ、さらにはグルックをもこの分野に引き入れた。グルックは1754年から1764年までにこのようなオペラ・コミックを10曲、ブルク劇場のフランス劇団のために書いた。なかでも《メッカの巡礼者たち Die Pilgrime von Mekka》(1764年初演)は1770年にドイツ語によって上演されたのである。
これ以後オペラ・コミックの諸作はどんどんドイツ語に訳され、各劇場で上演されるようになる。したがってウィーンのジングシュピールにイタリアとフランスの影響がともに色濃く見えるというのは当然のことである。
*4)ジングシュピール劇場の誕生
さて、ジングシュピールの最重要期が始まったのは1778年である。その年に神聖ローマ皇帝ヨーゼフ二世(在位1765ー90)は、ウィーンの芸術を何とかドイツ化するために、「ドイツ国立ジングシュピール劇団」の設立を企てた。この劇場は自国の詩人や作曲家たちに口語による作品を書くことを奨励し、イタリア語やフランス語による作品よりも、ドイツ語による作品を愛好する人々の利益と向上とを図ることを目的とし、ブルク劇場を国民劇場Nationaltheaterに昇格させて、ドイツ演劇を上演することを決めた。しかし、その期待は裏切られ、一般に人気を博したのは、オペラ同様相変わらず外国作品の翻訳物が中心であった。
国民劇場のこけら落としに選ばれた作品は、ヴァイデマンとイグナーツ・ウムラウフIgnaz Umlauf(1746ー96)による1幕物のオペラ《坑夫 Die Bergknappen》で、1778年2月に初演され、その後4年間に30回上演された。この作品はヨーゼフ二世のオペラ団National-Singspielのために書かれた数々のオペラの中でも典型的なもので、様々な演劇伝統から自由な借用を行っていた。北ドイツの音楽劇ーーヨハン・アーダム・ヒラー、ゲオルク・ベンダGeorg Bendaなどのオペラーーが着想の重要な源泉となっている。例えば、ヒラーの作品にみられるような簡素で民謡的な旋律があり、またフランスのヴォードヴィルや、イタリアのオペラ・セリア、ブッファの直接の影響も明らかな、各種混交というべきにぎやかな作品である。
新作二作目は、やはり自国の作曲家ドルドネスによるものであったが、その後は翻訳作品がもっぱら主流を占めるようになった。その間に評判のよい輸入作品に何とか対抗できたのは、ウムラウフの《黒褐色の靴、美しい女靴屋》、と《鬼火》、グルックの《メッカの巡礼者》、モーツァルトの《後宮からの誘拐》だけであった。《後宮》はこの運動が幕を閉じるまでに約40回上演された。
ウィーン生まれのカルル・ディッタース・フォン・ディッタースドルフDittersdorf (1739ー1799)もこの頃、オペラ・ブッファからドイツ語台本による作品に切り替え、《薬剤師と医者》、《迷信ゆえの偽り》、《精神病院での愛》、《ヒエロニムス・クニッカー》、《赤頭巾》などの作品を書いた。彼はこれらを「コーミッシェ・オーパー」と呼んだが、まさに優れたジングシュピールの傑作といえる。とくに1788年に初演された《薬剤師と医者 Der Apotheker und der Doktor》はオペラ・コミックの音楽的要素を多分に取り入れており、アンサンブルの場面の豊かな音響や、息の長いクレッシェンドはイタリア・オペラの影響であるが、快適でエスプリに富んだリズムはフランス・オペラの影響であり、独唱曲のみがジングシュピールの歌曲らしい単純さを保っている。しかしこれは国民劇場ではなく、ケルンテン門劇場で上演され、皇帝の命を受けて作曲したものであるが、大衆の求めるものに見事に応えて大成功を収めたのであった。
1788年2月に国立ジングシュピール劇場が最終的にその幕を閉じると、ウィーンには、口語によるオペラの上演を専門とする劇場がなくなってしまった。
国民劇場の閉鎖によって、ウィーンのジングシュピールは国家の保護を離れ、再び市民のあいだの民俗芝居となった。これらは主にウィーン郊外の劇場で上演され、一般の人気を獲得するようになった。もっとも郊外の諸劇場はすでにこれ以前から国民劇場と並行して存在し、かなりの水準を示していた。
結局18世紀の最後の20年間に、ウィーン市民の人気を奪っていたのは郊外の2つの劇場であった。レオポルトシュタット劇場とアウフ・デア・ヴィーデン劇場とがそれである。レオポルトシュタット劇場は特に民衆茶番劇の伝統を純粋に保ち続けてきた。初代の座主カール・マリネッリ(1745ー1803)は劇場経営の手腕があり、自ら俳優として出演し、また楽長としても楽団を指揮した。1781年からここではヨハン・ラロッシュ(1745ー1806)という役者が「カスペルレ」(Kasperle)という役を創出してウィーン全市の人気を集めるようになった。ラロッシュは階級の上下を問わずすべての人を魅了する術を知っていた。ちなみにラロッシュの跡を継いだアントン・ハーゼンフートは「タッデドル」(Thaddadl)という役を作り、イグナーツ・シュスターは同様に「シュタッバル」(Stabberl)を生み出したが、カスペルレほどの人気は得られなかった。
この劇場ではこう言った茶番劇ばかりではなく、ヨハン・シェンク(1753ー1836)やアントニオ・サリエリ(1750ー1825)やディッタースドルフなどの正統的なジングシュピールも盛んに演じられた。
前述のように、この劇場の監督を務めていたカール・マリネッリは劇場経営の才を発揮し、当時ジングシュピールに非凡な才能を見せた若い有能な作曲家ヴェンツェル・ミュラー(1767ー1835)を、手元に引き入れたり、フェルディナンド・カウアー(1751ー1831)他の有能な音楽家を補佐役にして、平易な旋律を駆使して、大きな人気を獲得した。主要なレパートリーは、繰り返し上演を重ね、200回を越える物もあった。サリエリなどの「宮廷オペラ」の作曲家たちも、次々に作品を提供したが、結局ミュラーを越える人気を得ることは出来なかった。
もうひとつの郊外劇場であるヴィーデン・フライハウス劇場は、1789年からジングシュピールの歴史に重要な役割を果たす。
1790年の春、エマヌエル・シカネーダー(1751ー1812)がウィーンに戻り、このアウフ・デア・ヴィーデン劇場の監督に就任した。マリネッリの一座ほどの座付き作曲者がいなかったにもかかわらず、一連の「アントン」シリーズは絶大な人気を博した。彼は自ら主役を演じて《山から出てきた馬鹿な庭師》を出し大当たりをした。次にはロマン的ジングシュピール《妖精の王オベロン》をハイドンの弟子であるパウル・ヴラニツキーの作曲で上演し、また大成功を収めた。また、彼の手により上演されたモーツァルト、ジュスマイヤー、ザイフリート、ヘンネベルク、ヴィンター、ヴラニツキーなどの作品は、彼の名声を高めるのに役だった。しかし、次第に派手な演出に向かい、三流の作品や旧作の二番煎じに堕していった。
*7)シカネーダーとヴィーデン劇場
ところで、シカネーダーが《魔笛》を上演した頃のアウフ・デア・ヴィーデン劇場の様子はどのようであったろうか。
1787年、建てたのはクリスチァン・ロスバッハ(1756ー93)という人物で、座長を務めたものの、うまく行かずに一年と経たぬ間に手放してしまった。客席は17メートル×15メートル、舞台奥行きは12メートル、間口が16メートルという規模であったので、壮大なオペラの上演も可能であった。地理的には、ケルンテン門を南へ1キロのフライハウスにあり、市壁内の上客を呼ぶには、道路と街灯の整備がまず必要な状況であった。以後この劇場界隈の明るさは永く人々を驚かせるに足りるほどに、完備されたのである。
1791年、奇しくも同じ種本による歌芝居が、レオポルトシュタット劇場ではヨアヒム・ペリネJoachim Perinet作《ファゴット吹きのカスパー、あるいは魔法のツィターKasper,der Fagottist oder Die Zauberzither 》、アウフ・デア・ヴィーデン劇場ではシカネーダー作《魔笛》として上演された。《魔笛》はモーツァルトのお陰で「人類の遺産」と言われるものの、芝居としては結局従来の魔法劇の系譜に入るものである。つまり、どちらもそれぞれに舞台の大転換=変身を見せ場とする機械劇であり、ウィーン魔法劇という混交ジャンルのもつ力と魅力に負っていたのは間違いない。
ペリネが話をすっきりとまとめ、カスパーものとして簡潔に澱み無く仕上げたのに対し、シカネーダーは様々の話を混ぜ合わせ、話そのものよりウィーン民衆の大道見せ物芸に対する要求を存分に盛り込もうとしたと言われた。当時の魔法劇=メルヘン劇が、「スペクタクル」という呼称を容認し、手に汗握る冒険活劇や、客の目をむく演出を取り入れるバロック民衆劇の名残を捨てきれなかったことは確かであり、《魔笛》に対して後に試みられる多様でかつ深淵な解釈は、民衆劇の通俗性とあまりに離れすぎており、ややもすると時代背景の臭いのしない単なるドイツ語オペラに化してしまう恐れがある。我々は、いつの時代の作品に関しても一度はあるがままの生の姿にもどして、率直にまた素朴に味わいたいと願うのであり、このケースでは、それはウィーン・ジングシュピールの歴史をたどる中でようやく可能となるように思われる。
ペリネの《ファゴット吹き》と同じ「王子ルル、あるいは魔法の笛」を第一の種本としたシカネーダーの《魔笛》は、コモルツュンスキーKomorzynski(1878-1963)の言うように、幾つかの話の合成であるのみならず、旅一座の座長として頭の中に叩き込まれている数々のレパートリーがそのまま台詞として出てきたものだとすれば、レッシング作《ユダヤ人》《ミス・サラ・サンプソン》《フィロータス》《ミンナ・フォン・バルンヘルム》などからの台詞、さらにはシェイクスピア、《ドン・キホーテ》に至るシカネーダーの知る過去の名作からの断片的引用を思わざるを得ない。
*8)シカネーダーと《魔笛》
それでは一体シカネーダーの描く道化役パパゲーノはどこから来たのか。鳥と人間の合成、パパゲーノ。ハンスブルストが百姓姿で、ベルナルドンが何にでも変身し、カスペルレが幼児性の仮面に託して再び従者の世界に身を納める、そういう歴史の果てに、いきなり半鳥半人が登場するのか。笑わせるという道化の役として以外に、多面的な意味をになって、あらゆる場面に登場するパパゲーノ=シカネーダーの役どころとは何か。
*9)ウィーン・オペラ
ところで、この時代のウィーンのオペラ熱がいかに高いものであったかは、その上演回数を見れば一目瞭然である。1770年から1800年までの期間に確認できる限り、ウィーンで上演されたオペラは約960で、調査にかからなかった回数を計算に入れると、1000は優に越えるであろう。上演は1770年代前半は比較的少なく、マリア・テレジアが亡くなった1780年以降に急増する。統計的にいうと1770年から1779年までは119曲であったのが1780年から1789年までが334曲、1790年から1800年までの11年間は512曲であった。どの劇場でもオペラだけを演目にしているわけではなく、全体の演目の約三分の一がオペラであることから実際にはこの三倍の出し物が演じられていたことになる。これはウィーンのようなわずか人口24、5万人の都市では驚異的なことであった。
シカネーダーはオペラおよび演劇の台本を生涯に100本近く書いたが、これは決して目立って多作というわけではなかった。彼と優を競っていたぺリネらの作家も同じく多作をもって同業者に対抗していたのである。
*10)ウィーンとモーツァルト
ザルツブルクに生まれたモーツァルトはウィーンを4回訪問している。第一回は1762年、第二回はその5年後、いずれも彼が神童としてもてはやされた時代で、彼はマリア・テレジア女帝にかわいがられたが、特に彼とウィーンとの間に強い連関が生まれたわけではない。第三回は1773年の夏で、短期間の滞在ではあったが、グルックの改革オペラ、さらにハイドンからの影響を受けた。第四回は1781年3月で、それから死ぬまでの10年間、彼はウィーンに定住することになる。したがってモーツァルトの滞在したウィーンはヨーゼフ二世時代、ついでレオポルト二世の時代ということになる。
1778年、モーツァルトはザルツブルクでの生活に辟易して、母とともにマンハイム、そしてパリに旅行する。もちろんその目的はもっとましな就職先を求めるためであった。その時、モーツァルトの念頭にはウィーンの姿はなかった。彼が夢にまで見た活動の場は、華麗なマンハイム楽団であった。当時、この楽団はヨーロッパ屈指の有能な楽団員を、しかも破格の高給で抱えていた。手紙の中で、彼は羨望の眼差しでその待遇の良さを語っている。しかし、そこに目指す就職先を見出すことが出来ず、失意の中にパリに向かうことになる。
パリの聴衆のために交響曲第31番《パリ》K、297(300a)を作曲して、この都市への憧れと熱意を示すものの、ここにも条件のよい希望通りの就職先は無く、再び肩を落として故郷に戻ることとなる。彼はなぜウィーンに関心が無かったのか。前にも書いたように、そのころ皇帝ヨーゼフ二世はブルク劇場を皇帝直轄の国民劇場に改組し、ドイツ語のオペラを振興するべくふさわしい楽長を探していた。確かに、モーツァルトは、もし皇帝が1000フロリンを払ってくれれば、ウィーンに行ってもよいと手紙にのべている。
もしこの時彼がマンハイムに首尾よく就職し、成功を収めていたら、おそらく交響曲の分野で多くの可能性が開けたに違いない。当時ウィーンというところは、予約演奏会が中心で、交響曲作曲の機会は意外と少なかった。その点、マンハイムはパリと密接な関係を持ち、いろんな可能性をもっていた。そしてたとえば管楽器、とりわけクラリネットを重用した華やかなオーケストレーションを特色としていたこともあり、恐らくモーツァルトの交響曲は、また違った面で歴史に重要な足跡を残したにちがいない。
またもし、彼がパリで活躍する事になれば、当然グルックの影響を強く受けることとなり、コンセールスピリチュエルでの活動も加わり、フランス語オペラとの新たな関わりが期待を生んだであろう。しかし、グルック・ピッチンニ論争の渦中にあったパリでは、オペラ作曲家として成功を収めるのは容易なことではなかったのかも知れない。
結局ザルツブルクを捨てたモーツァルトはウィーンに活動の場を求めることになった。そしてその後の10年間をこの町で暮らし、その生活を支えるために生み出した作品の数々、例えば華麗な18のピアノ協奏曲、精妙で輝かしい弦楽四重奏曲《ハイドン・セット第1ー第6》やト短調の弦楽五重奏曲k、516をはじめとする一連の室内楽曲、そして幾つかのオペラは間違いなくウィーンの恩恵を十分に受けたものばかりである。
なかでもジングシュピール《後宮からの逃走 Die Entfuhrung aus dem Serail》k、384(1782)や《魔笛》は、ウィーンだからこそ作曲できたオペラであった。《後宮からの逃走》はアンドレが同名のオペラを作曲したのを受けて、同じ台本を手直しして作曲した作品であり、トルコ物は当時ウィーンの最も人気ある出し物のひとつで、それだけでも人気は上々であった。また、《魔笛》はヴェンツェル・ミュラーの《ファゴット吹きのカスパー》など、魔法を題材にした出し物の流行を抜きにしては生まれなかった作品である。それに《フィガロの結婚Le nozze di Figaro》k.492(1786)は、その内容が身分制度の根幹を揺るがす物であったために、ウィーン以外のどこの都市でも上演することは不可能であった。つまりこの上演は皇帝の命令でかろうじて実現したものだからである。
ウィーンが生んだという意味では《ドン・ジョヴァンニ Don Giovanni》k、527(1787)も同様かもしれない。つまり、このオペラの中には《魔笛》と同じく、当時のウィーンの舞台で行われていた数々のオペラからの影響が随所に伺えるからである。つまり、当時ウィーンでもヴェネツィアの作曲家ガッツァーニが作曲した同名のオペラの評判が及んでいて、モーツァルトはそれに示唆を得るのである。さらにオペラの中にウィーンで評判をとったサルティやグレトリーのオペラの一節、さらに自作の《フィガロの結婚》(1786 )からのアリアの一部まで引用されており、その点で彼は明らかにウィーンの人々の歓心を買おうと努めていたようにも見える。
*11)《魔笛》とモーツァルト
モーツァルトはシカネーダーが座長を務めるフライハウス劇場の依頼で、《魔笛》を作曲するが、この劇場は宮廷劇場とは異なりまったくの庶民を対象としたところであった。そこで彼は音楽をそれにふさわしい極めて平明でわかりやすい物に仕立てる。《魔笛》のアリアのいくつかと、それ以前に彼が作曲した物には、はっきりとした違いがある。
コモルツュンスキーも言うように、《 魔笛》の成立事情は単純ではない。実に多くの糸が《魔笛》に合流している。つまりこれは類例無きオペラ台本であり、その解釈の歴史を見れば、それは汲み尽くすことが不可能な深い泉のように思える。精神の深化に必要なものはフリーメーソンの観念界と文献から得ているが、外面的枠組み、多彩で豊かな生と変化に必要なものはすべてヴィーラントの『ジニスタン』および『オベロンOberon 』の童話から取られている。単にフリーメーソン精神を劇化しただけなら、知悉と公益に奉仕する仕事から女性を完全に締め出すきびしい掟をも賛美せねばならなくなる。それでは一面的となり、舞台作品として不合格である。そこで、夜の女王というあまりに魔界的ではあるものの、強烈なパワーと存在感のある女性を筋書きの中に取り込みバランスを保ったのである。そしてこれが、次のようにまさに天才的な手法で全体の中に有機的に組み込まれている。つまり、パミーナは女性(母)の影響から抜け出し、ザラストロの指導のもとで女性本来の優れた特性をすべて発展させ、それにより自立していない子供から目的を持った勇敢な人間へ、そして威厳ある人格へとすすみ、男性同様に高貴な人間性の秘儀を授けられるのである。これにより、もっぱら男性に、それも選ばれた男性に限られていたフリーメイソン理念が、両性を包括する高貴さと人間愛に通じる教育体系へと拡張されたのである。それに伴い舞台でもとうとう、自分の女房を見つける伝統の道化師の登場も許されることとなった。だが、その道化師は単に人のいい自然児、凡庸なお人好しでは終わらない。高度な目標は避け、肉の喜びに満足を見出そうとする人物を演じつつ、社会のアウトサイダーとして、皮肉な眼差しを投げかける渡り者、自然へと送り返された制外者として、この鳥人は世の真実を、真の愛についてパミーナ(パパゲーナではなく)と語り合うその深い味わいを放つ人間性と強い行動力を決して隠そうとはしないのである。
しかし、シカネーダーの手の内をどんなに注意して深読みしてみても、おそらく《魔笛》からわれわれが感じる不思議な開放感、救済感そしておおらかな満足感と無限の憧れのような魅惑的な心の高揚の秘密は分かるまい。何故なら、そのほとんど総てはやはりモーツァルトの音楽と精神の賜物だからである。シカネーダーの猥雑な筋立てや、登場人物の一筋縄で行かない関係付けも、総て刻々の響きの中で、輝きと甘美さと、透明な明晰さに包まれて、晴れやかに軽快に、そして何よりも気品に満ちて、すべて自明のことのように了解させられてしまう。モーツァルトの音楽に18世紀の演劇が与えた諸条件は我々にも意味深く興味深い点が多々あると実感させられる反面、舞台の上に繰り広げられるドラマと見せ場はややもすれば歴史の流れの彼方へ葬りたくなるようないらだちを覚える。
このギャップを埋めようとする研究論文やエッセイの類は古今東西枚挙に暇がない。しかし、このオペラは何と多くのかつ深い教養の必要性を仄めかしながら、また一方では人間そのもの、真に人間味に溢れた実に豊かな人間性への賛歌を謳い上げ、身分にも富にもこだわりのない生き方、存在がどんなに楽しく満ち足りた心を提供できるのかを示しているだろう。
注釈および参考文献
1)「モーツァルト 《魔笛》」アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント編、畔上 司訳、音楽之友社 名作オペラブックス5
リブレット対訳 海老沢 敏、p.55ー186
2) Otto Rommel:Die Alt-Wiener Volkskomedie.Wien 1952,S.493-530
1)に同じ p.250-272 オットー・ロンメル「《魔笛》の成立事情とギーゼケ伝説」
3)「《魔笛》の題材の原本」J.A.リーベスキント/Chr.M.ヴィーラント「ルル、あるいは魔笛」、クリストフ・マルティン・ヴィーラント「賢い童子たち」
1)に同じ p.187ー198
4)「ヨーロッパの都市と音楽」クラシック音楽の源泉を訪ねて、日本フォノグラム発行、p.34ー37。
5)「世界オペラ史」その誕生から現代まで レズリー・オーリィ著、加納泰訳、東京音楽社 p.178。
6)渡辺護 「ウィーン音楽文化史」音楽之友社、p.177ー190。
7)原研二 「18世紀ウィーンの民衆劇」 法政大学出版局、p.。
8) Egon von Komorzynski:Mozart,Sendung und Schicksal.2,umgearbeitete Auflage. Wien 1955,S.248-299
エーゴン・フォン・コモルツュンスキー 「モーツァルト。使命と運命」改訂第二版、ウィーン、1955。
1)に同じ 「《魔笛》の成立事情」p.230ー249
9)西洋の音楽と社会 6 古典派「啓蒙時代の都市と音楽」ニール・ザスロー編、樋口隆一監訳、音楽之友社、p.155ー161。
10)戸口幸策 「オペラの誕生」東京書籍、p311ー321。
ルートヴィヒ・ベヒシュタイン
『ドイツ・メルヘン』
「メルヘンの誕生」
(1846)
昔々、まだメルヘンが無かった頃は、子供たちが悲しい思いをしておりました。というのは、彼らの幼き日の楽園に、あのとても美しい蝶がいなかったからです。そこには、王様の二人の子供たちもおりました。二人は父の豪華な庭園で一緒に遊んでいました。庭には美しい花が咲き乱れ、小道には色とりどりの小石や黄金の砂利が撒かれ、花壇の露のきらめきと競い合って輝いておりました。庭には、ぴしゃぴしゃと音を立てる泉のある、ひんやりした洞窟がありました。天まで高く吹き上がる噴水、美しい大理石の柱像、かわいらしい休息用ベンチもありました。噴水盤には、金色や銀色の魚が泳いでいました。金色の大きな鳥小屋では、きわめて美しい鳥たちが羽ばたき、また別の鳥たちは自由にとび回って、かわいい声で囀っていました。でも、王の二人の子供たちは毎日それを手にしたり見たりしていたので、石の輝きや、花の香り、噴水や口のきけない魚たち、そして彼らにはその歌の意味がわからない鳥たちにも飽き飽きしていたのです。子供たちは黙りこくって一緒に座ったまま、悲しそうでした。彼らは何でも持っていました。つまり、子供なら欲しがるようなもの、立派な両親、たいそう高価なおもちゃ、すっごくきれいな着物、おいしい料理に飲み物、そして毎日毎日美しい庭で遊ぶことを許されていたのです。でも彼らは、何故だかわからなかったけれど、またどこが具合が悪いのかわからなかったけれど、悲しかったのです。
するとそこへ、彼らの母親、王妃(女王)であり、おだやかでやさしい顔立ちの美しく高貴な婦人がやってきました。そして子供たちが、歓声を上げて自分の方へとんでくるかわりに、しょんぼりとして、微笑えみかけるだけの様子をみて心を痛めました。彼女は、自分の子供たちが幸福でないのを、悲しく思いました。子供ならば当然、まだ何の心配事もなく、幼き日の空にはたいてい一片の雲もありはしないのだから、みんな幸福であるべきだし、またそうなれるのにと。
王妃は、二人の子供たちのところに腰を下ろしました。子供たちは、一人が男の子で、一人が女の子でした。彼女は、金の留め金で飾った、ふくよかな白い腕を彼らの腕に巻き付けて、母親らしく、優しく尋ねました。「私のかわいい子供たち、一体どうしたの?」
「僕たちにはそれがわからないの、愛するお母様!」と、男の子は言いました。「私たちは何だかとても悲しいわ!」と、女の子も言いました。
「このお庭はとても素敵だし、あなた達が喜びそうなものは、何でもそろっているでしょ。それなのに全然うれしくないなんて、いったい?」と、王妃が尋ねました。そしてその慈愛に満ちた優しげな目から涙があふれ出たのです。
「つまらないんです。ここにあるものだけでは。」と、母の問いに娘は答えました。「僕たちは、何かを求めているんだ。それが何か、わからないんだけれど!」と、息子が付け加えました。
母親は悲しそうに黙り込んでしまいました。そして、子供が欲しがるようなものを思い巡らしてみました。つまり、豪華な庭園や、きらびやかな着物、山のようなおもちゃ、高級な嗜好の料理と飲み物なんかより、子供にとってずっとうれしい物は何なのか、でも、いっこうに思い当たらないのでした。
「ああ、私自身がもう一度子供に戻れたなら!」と、王妃はそっとため息をつきながらつぶやくのでした。「そうすれば、子供の喜ぶ物を自分で思い浮かべられるのに。子供の希望を理解するためには、大人は自ら子供にならなきゃいけないんだわ。でも、幼き日の国からもう随分と離れて来てしまったのね。そこでは、楽園の木々の間を金色の小鳥が飛び交ってるの。あの足のない鳥たちがね。だって、決して疲れることのないものは地上で休む必要がないんですもの。ああ、もしそんな鳥が飛んできてくれたなら。そして、私の大切な子供たちを、幸福にしてやれる何かを、持ってきてくれたらいいのに!」
すると、どうでしょう。王妃がそう願うと、突然彼らの頭上の青い空に素晴らしい一羽の鳥が舞っていたのです。そこからは、一条の光が立ち昇り、あたかも金の炎か宝石の輝きのようでありました。それは、低く低く舞い降りてきて、王妃の目に映り、子供たちもそれを目にしたのです。みんなは、ただ「ああ!ああ!」と叫ぶだけで、驚きのあまり他に言葉が見当たりませんでした。
その鳥が、だんだんと低く舞いながら降りてきた様子は、とてもすばらし眺めでした。かすかに光ったり、輝いたり、また虹色にきらめいたりして、もう目も眩むばかりですが、それでもやっぱり目が釘づけになってしまうのでした。それはあまりに美しくて、王妃も子供たちも、喜びにかすかに身震いするほどでした。羽ばたきの起こす風を感じただけになおさらのことでした。そして、思う間もなく、不思議な鳥は王妃、母親の膝に降り立ち、優しい子供の目で子供たちを見つめたのです。しかも、その目には、子供たちには分からない何かがありました。何か異質なもの、恐れを抱かせるものがありました。だから、彼らはあえて鳥に触れてみようとは思わなかったのです。そのうえ、奇妙で、この世のものとは思えないほど美しい鳥には、遠くからでは気づかなかったのですが、その輝く色とりどりの羽毛の下に漆黒の羽毛があるのが、今初めて見えたのです。けれども、子供たちが美しい不思議な鳥をもっとくわしく観察して、それを言えるような時間はありませんでした。何故なら鳥は間もなくあっと言う間に飛び立ってしまったからです。足のない楽園の鳥は、ふわふわと舞いながら、ほのかに光を発して、だんだん高く飛び上がり、大気の中に浮かぶ色とりどりのただ一本の羽毛のようにみえるまで、飛翔していきました。それから、金の一筋にしか見えないほどになって、消えてしまったのです。・・・でも、すっかり消えてしまうまで、王妃も子供たちもずいぶん長いこと驚きに呆然としながら見送ったのでした。しかし、いやはや驚いたこと! 母親と子供たちが再び下に目をやったとき、何とまたまたびっくり! 母親の膝の上には、あの鳥の産んだ金の卵があったのです。ああ、そしてその卵もまた、いちばん高価なラプラドル石や深海のいちばん美しい真珠貝のように、緑がかった金色とゴールド・ブルーにほのかに光っていました。そこで、王子と王女は、同時に叫びました。「卵だ! 美しい卵だよ!」。 しかし母親は、至福の笑みを浮かべつつ、感謝に満ちた気持ちの中で予感したのです。これが、子供たちの幸せに今まで欠けていた宝石に違いない! この卵は不思議な光を放つその殻の中に、大人には拒まれているものを、すなわち”満足”というものを子供たちに与える宝物、彼らの憧れを、子供っぽい悲しみを静めてくれる宝物を秘めているに違いない、という予感でした。
子供たちの方はというと、そのきれいな卵を見飽きることがありませんでした。そして卵を喜ぶあまり、間もなくそれを持ってきた鳥のことは忘れてしまいました。みんな初めは、卵にあえて触ろうとしませんでしたが、ついに王女がそのバラ色の小さな指のひとつでそれに触れたのです。そして突然、その汚れのない小さな顔を紅潮させながら、叫びました。「卵が温かいわ!」。さてそうなると、王子の方も卵に用心深くそっと手を触れて、妹の言ったことが本当かどうか確かめようとしました。ついに王妃もそのやわらかな白い手を見事な卵の上においてみました。すると、どうでしょう。殻がまっぷたつに割れて、卵の中から素晴らしい姿形をした、ある生き物が出てきたのです。それは、羽はあるけれど鳥ではなかったし、蝶でも、蜜蜂でも、トンボでもありませんでした。それでいて、そのどれともあるところが共通していて、まったくもって表現のしようのないものだったのです。要するに、それは色とりどりの羽を持ち、虹色に光り輝く子供の幸せであり、子供そのものだったのです。つまり、それは、不思議な鳥の”ファンタジー”であり、”メルヘン”なのでした。今では母親は子供たちがもう悲しんでいないのに気づきました。というのはその後、いつも子供たちのそばにあり、彼らが子供であるかぎり、それにあきることもなくなったし、彼らがメルヘンに出会ってからというもの、庭や、花や四阿や、洞窟、森、林などを初めて本当に愛せるようになったのです。何故ならメルヘンはあらゆるものを子供が喜びを感じるように生き返らせたからでした。メルヘンは自ら、その羽を子供たちに貸し与えたのです。だから彼らはあちこち遠くへ無限の世界を飛びまわれたし、しかも望めばいつでも直ちに帰ることができるのです。あの王の子供たち・・・・それは幼年時代という楽園の住人であり、自然がその美しく優しい母親だったのです。彼女は不思議な鳥のファンタジーが空から舞い降りるのを望みました。その鳥はたいそう見事な金色の羽をもち、一部は深い黒みを帯びていましたが、彼女の膝の上に金色のメルヘンの卵を産んだのです。
幼年時代の日々を美くしいものとし、千種類もの創造と変容をもって彼らを楽しませ、そして、あらゆる家や山小屋、あらゆる城や宮殿の上を飛んだメルヘンを、子供たちが心から愛するようになったように、メルヘンの有りようは、大人にさえ気にいるものであったし、幼年時代の庭から何かを、つまり”心の中の子供らしさ”というものをより成熟した年齢に持ち越しさえすれば、大人は自分自身を楽しんだということであるのです。